現在の状態になるまでの経緯

今回は切断になるまでの経緯と現在の状態を幼少期から社会にでて働き、
切断になるまでと、切断後についてお話ししたいと思います。



元々の病気は
「動静脈奇形」・先天性の血管奇形の病気です。



膝を中心に血管の奇形が集中し例が無いくらい血管と血流がおおく、血流の問題から心臓にも負担がかかっていた状態でした。
そして、左右の足の骨の長さにも3cm違いがありました。

◆幼少期…何故かよく転倒していたため病院に行き、右足と左足の長さが3cm違ってい流ことが発覚しました。
左右の長さ揃える為のかかとに3cmの高さのある靴の中に入れる中敷のような装具を右脚につけていました。


◆中・高校生…中学1年の夏、成長期がおさまった頃あいで左右長さを合わせる為の骨切りの手術をしました。
中学2年生の時、膝の血管の付近の内出血…とても痛みこの辺りから膝の内出血との戦いになります。
高校生から体育の制限がかかり、この頃から膝に常にサポーターの着用になり病院にも通いますが原因は不明で現状維持、その後は太ももから足先までの圧の強いサポーターの着用へと変更となりました。この頃から右脚全体に静脈瘤のような血管の凸凹が目立ち始めます。


◆18歳〜社会にでてから病状は落ち着いた様に見え自由に行動する様になり、旅や20歳にはお酒も嗜むようになりお酒も楽しむ様になりました。
病状は変わりませんが何事もなかったように思いました。

が…しかし、やっぱり痛み始めます。右脚全体が血管と血流の多さで常にねっ感があります。痛み止めも度々服用し始めました。

しかし気にしない性格で、海外へも旅に出るようになり楽しんでいた頃に旅の途中で膝を痛めて帰ってきました、帰国して速攻で救急で治療を受けます。
この時から心は前を進みたいのに体はついて来ない…そんな状況に悩み始め血管の病がだんだん進行し始めます。


そんな中、色々な方助けがあり血管手術を受けられるようになりました。
私の病気が難病指定病気と判明、この時初めて自分が”動静脈奇形“だと知りました。
多すぎる血管を硬化療法といって必要のない血管を消す手術です。

この手術は心臓の負担も軽くする為もあり必要な手術で、心筋梗塞のリスクも避ける為の手術でした。

この手術、術後に潰瘍がどうしても皮膚にできてしまい治るのに3ヶ月かかりとても痛みました。
この血管の手術を10回繰り返した頃、突然 膝関節に激痛が走るよいになり杖を使っても歩くのもやっと…松葉杖を使うようになってしまいます。
この時、右膝が変形性膝関節症と同じ様な病状で原因不明で軟骨がすり減っていました。
膝は血管の多さの為に関節に手の施しようが無い状態、切断以外に手がない状況だと頭によぎります。
検査の結果は右脚の膝・股間節がぼろぼろの状態…大腿部からの切断を希望しましたが血量が多すぎる為に大腿部からは切断できないとのこと、股関節からの切断となりました。

血管が多すぎる為に股関節からの切断も難しい状況は変わらないとの事、半年かけて医師と相談しここまで頑張ってきた右脚足を股関節からの切断を決意します。

結果、良い判断でした。

手術は9時間、股間節で結んだ血管は100本近いゆう話しでした。
無事に終わりました。

現在は病原は少し残りつつも、心筋梗塞の恐れはなくなり、繰り返し続けてきた血管の硬化療法もしなくて済みました。

何より、痛みが少なくなりました!

自分の体と相談して不安もありましたが切断の道を選んだ事は間違いではありまんでした。

もちろん、不安もありました。
本当に良いのか、誰も答え出せない状態で全て自分の判断で決意しなければならないのは大変な事でした。

心も揺らぎ、切断直後から医師の勧めもあり心療内科に進んで通いました。
これは本当によかったです。

冷静でいられたり、客観的に自分を見れるようになり今までの悩みも話せる用になりました。心療内科の大切さ知り現在も通って心と体バランス保っています。


心と体バランス、
現在は前より取れている様に思います。


股義足になって、幻肢痛は少々あるもののそこは心療内科や外科で相談し、お折り合いをつけ自分なりの着地点見つけました。
そもそも根本の痛みが減り体の疲れと心の疲れは取れて、不眠もなくなりました。これは大きな変化でした。


この心と体のバランス、難しいです。自分の心の声を素直に聞く難しさ…それに答えてゆく。
その作業は1人で戦うのは難しいです。プロのお世話になる方が賢明だと実感しました。
私の経験ですが心療内科は必要です、きっと。


人生の大きな変化を自分1人で受け止めるのは大変です。
是非、その道のプロに頼ってみては…


いつも、いつも元気じゃいられません。
心も臓器です、風邪をひきます。
なので、頼れる時は頼りましょう。

1人じゃない…です。